自分以外の人の死は「故人からの自分へのメッセージ」なのだと思う
どうも、体験を哲学し言語化するのが趣味なヘンなやつミズノケイスケです(、`)ノ
今日6/24は、父の誕生日なのですね。
父は2年前の夏に亡くなりました。生きていたら70歳よりちょっと前くらいでしょうか。若干、早めに、あちらに行かれたのでしょうかね。
ぼくが独立したのが2015年の5月、その年の夏のことでした。それまで、縁遠かった「身近な人の死」に触れたのが、そのときでした。
このごろFacebookを見ていると、「死」についての話題をよく目にします。
父が亡くなる前でしたら、特に言うこともなかったかもしれませんが、身近な人の死を経験すると、あれこれ考えることもあります。
今日、「父の誕生日だな」ということと、「麻央さんの件での、みなさんの意見」から、ぼんやり考えていたことを、書いてみようと思います。
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人の死は「メッセージ」なのだと思います。
死には2種類あって、
ひとつは「自分の死」。
もうひとつは、「自分以外の人の死」。
これは、同じ「死」であっても、似て非なるものなので、わけて考えなければならないように思います。
自分の死については、正直、まだよくわかりません。漠然と、死ぬ直前に後悔だけはしたくないなあ、とは思うけれど。今回は、自分の死ではなくて、自分以外の人の死の話。
自分以外の人の死は、
「故人からの自分へのメッセージ」なのではないだろうか?
お昼に親子丼を食べながら(←え!なにその偶然、今気づいたけど!)、そんな考えが浮かんできたのでした。
父が亡くなったとき、それほど動揺もせず、悲しみもわいてこない自分がいました。それを「冷たいやつだ」とする声があるかもしれませんが、正直な実感なのだから、仕方ありませんし、取り繕う必要もないと思っています。
でも、2年前の夏から、節目節目で、父親のことを思い出し、父親の存在が自分の生きる道の指針になっている感覚があるんです。
・・・あの人は、本当に満足した人生を送ったのかな?幸せだったのかな?剪定屋の仕事やりたいって言ってたけど、結局できずじまいだったよな。子ども3人抱えながら働いて、自分のやりたいことを犠牲にしてたんじゃ。
本人がどう思っていたかはもはやわかりませんし、それは父の問題だと思います。残されたぼくは、ぼくにできることをやる。
ぼくにやれることとしたら、父からのメッセージを受け取って、どれだけ自分らしい人生を生ききるか。
父親は、肉体がなくなっても、ぼくの中には残っていて、メッセージを届けてくれています。
その感覚。
だから、
自分以外の人の死は、故人が自分へメッセージを送っているのではないか?
そんなことを思ったのでしょう。
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小さい時、おばあちゃんの家でよく、「魔女の宅急便」を観ました。
劇中歌でユーミンが歌っている
『目にうつる全てのことはメッセージ』
これに近いのかもしれませんね。
写真は、父が亡くなった日の朝、病室から見えた景色。