アイデンティティ水野の【ジブんデザいん】Blog〜人生のデザインの仕方

Life can be designed. 人生をデザインしようぜ!どうしようもなく生きづらい自分を、どうにかしようともがいていく中で見つけた、自分の人生を自分でデザインする方法論、とかとか。

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夢を持てと大人は言うけれど、ないものはしょうがないだろう

「夢を持ちなさい」「夢を持たないと立派な大人になれないぞ」「進学先を選ぶには、夢から逆算して考えるんだ」「何?夢がないだと?ほら、なんかあるだろう」「子供の頃に、必ず書いてたはずだ」などと、教師から高圧的に夢を持つことを強要されたとしたら・・・

 

これは、「夢ハラ」とでも呼ばれるのだろうか。。。

 

まあ、教育現場の実際のところはわからないのだが、逆に、「そんな夢みたいなこと言ってないで、現実的な路線で進路を選びなさい」みたいな向きもあるのではないかとも思う。

 

さて、僕は「夢ハラ」の被害者というわけではないのであるが、「夢コンプレックス」ではあったかもしれない。その心はというと・・・夢が欲しいのだけれど、実感として湧いてくる具体的な「夢」のカタチが想像できないでいる人間だということ。

 

今日は、久しぶりに大嶋啓介さんの講話を聞く機会があって、やっぱり人の可能性を見なきゃねとか、夢や目標を持つことって大事だよね、なんて言うことを再確認した。で、改めて、僕の夢。夢、ゆめ〜かあ。。。

 

なんだろう、そう言う時に、例えばさ「メジャーで通用する野球選手になる!」とか、「ロックで世界を変える!」とか、「SKEに入ってアイドルになる!」(←これはウチの娘ちゃんの話w)とかとか。宣言できてしまう人を羨ましいなと感じてしまう。

 

だって、夢って原動力の源だって言うし、実際たぶんそうなんだろうな〜と思うし。夢に向かってる人を応援したいと思うし、夢に向かって突き進んでる人って、無敵で、輝いていて、楽しそうだし・・等々。

 

じゃあ僕はどうだというと、瞬間的には「これや!夢を見つけた!」と道が開けて突き進むも、しばらくすると失速してしまう。持続力がないのよね。飽きっぽいともいう。なので、「これや!」「違った〜」「これや!」「違った〜」を繰り返してここまでやってきたと言うのが現状で。これが僕の「夢コンプレックス」というわけ。

 

それがここにきて、長年の自問自答と世の中に対する観察を経て、「夢コンプレックス」に折り合いがついてきた。夢がない、夢を持てない、具体的なイメージとして夢を描けないことに対して、「まあ、それはそれでいっか〜」という、いい意味での開き直りができるようになった。

 

夢はあってもなくてもいいし、ただ目の前のことを頑張るだけ。それに、夢が具現化する時期っていうのも、人によって違うんじゃないのかなあ。早い人は、それこそ小学校に上がる前にすでに夢を持っているかもしれない、一方、ゆっくりと夢をあたためて、50歳を過ぎてから夢が見つかる人だっている。

 

僕も、もうそろそろ42歳になるけれど、なんかちょっとその辺に、ぼんやりと見えてきている気がするんだな。ぼんやりなものだから、「よしゃ!夢に向かってレッツラゴー!」とはならないのだけど、鈍行列車に揺られながら、あ、そろそろ夢、近づいてきてる??くらいの予感はしているのだ。

 

さあ、もう一回言っておこう。

 

夢はあった方がいいけれど、ないものはしょうがないだろう。(ないなら、ないで、目の前にあることを頑張ってりゃ、そのうち見つかるかもよ)

 

おしまい

 

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