すぐ近くにある、とてつもなくクッサいもの、見えてますか?
4歳になる娘が、すごい顔して
「クッサ!!!」
というのが、わりと好きですw
ウンチが近くにあると、臭い。
これは間違いないでしょう。
嫌いな人がすぐ隣にいる、これ、イヤですね。
遠くに離れれば、そうでもない。
嫌いな人も、ウンチも。
はい。
人は近くにあるものに影響を受けます。
はい。
さて、物理的な距離ではなく、時間軸で考えてみます。
たとえば、20年前はずいぶん過去のこと。
遠く離れた過去のこと。
ここに疑問を投げかけてみます。
遠い過去のことは、遠く離れたもの。
はて。
本当にそうでしょうか?
過去、現在、未来と、直線上に並べると、時間軸があるように感じますが、実際には、現在しか存在しません。
そういうことで言うと、たとえ20年前に体験したことであっても、今もまだ影響を受け続けている衝撃的な出来事、トラウマみたいなものは、すぐ近くにあって、強い影響を与えているんじゃないかと。
さらに、その出来事のことを忘れていたりすると、すぐ近くにとってもクッサいものがあるのに、その原因がわからない!と言うことも、あり得ます。
すぐ近くにある、とてつもなくクッサいもの。
ちゃんと見えてますか?
プロの占い師に「手相みれるの?ちょっと見て」と言うのはアリかナシか
どうも、いろいろやっていて、何をやっているんだかわからないところが個性のミズノケイスケです(、`)ノ
手相の勉強をはじめて、はや8ヶ月が経ちました。
手相読みとしてデビューしてからは、2ヶ月です。
「手相」って、やってみるとわかるんですけど、ひじょーにポップでキャッチーで、人気を集める力があるんですね。
手相をやってることが発覚すると、「ちょっと見てもらえます?」とか、列ができるとか、よくあります。
マドハンドは仲間を呼んだ!的な(笑)
わたくし、お金をいただいて手相をみてるので、プロの占い師のはしくれということになります。
さて、出ましたね、この話題。
お友達価格ってどうなの?とか、クリエイティブな仕事を値切るとどうなるか?とか、キングコング西野さんの「クリエイターが作品を無料で公開すると、クリエーターが食えなくなる」話とか。
お金をもらって手相を見ているプロに、「ちょっと見て?」というのはどうなのか。
こちらについて、ミズノの見解をお伝えしますと、
まあ、いいんじゃな〜い(笑)
わたくし、わりとゆるいタイプですので、ほかの占い師さんはわかりませんが。
基本、手相をみるのは楽しいので、苦になるものでもありませんし、何かが減るもんでもないですし、なにより勉強になります。
それじゃあ商売にならんだろう、という声もあるかと思いますが。
・・・お金ってなんでしょうね。
お金を払って手相を見てくれ、というひとは思いが違います。気合が違います。本気で自分が変わりたい、何かを得たいと思って相談におとずれます。
そういう方には、そういった姿勢で臨みます。その人が一番知りたいことをちゃんと見つけて、それが解決できるように、てのひらのシワから、解決の糸口を探します。
それは、それでいいのだと思います。
一方、お金は払わないけど、わたしの手相ってどうなの?というフランクな感じも、それはそれでいいのだと思います。
自分が興味のあることに、興味のある人。
これって、友達になれる人ですもんね。
ということで、何が言いたかったかと言うと、
ミズノに会ったら、手をみせて!
ってこと(笑)
手相をみたからといって、請求書が届くことはありません(笑)
【しつもん】自分の過去に何点をつけますか?
自分自身の生き様をアートとして表現していかなきゃならない
自分自身の生き様をアートとして表現していかなきゃならないんだ。
ジョン・レノンもトム・ヨークも曽我部恵一も。
その作品がいいだけじゃなくて、その人だからいいんだから。
好かれるとか嫌われるとか、成功するとか失敗するとか、大きい仕事だとか小さい仕事だとか、正しいとか間違ってるとか、そういうことじゃなくて。
他人という評価軸を入れることなしに、どれだけ自分を生きることができたかに、焦点を合わせればいい。
自分でいい。
アートなのだから。
感じ手が、勝手に解釈をすればいい。
何を感じ、何を考え、どう行動するかを、一点の曇りもなく表現できたとき、自分を生きていると胸をはれる。
遠いなあ。
でも、やってやる。
一歩はもう踏み出してる。
死ぬときに後悔するのはイヤだから。
自分自身の生き様をアートとして表現していかなきゃならないんだ。
プライド高い系デザイナーとは、付き合うべきかどうか?
プライド高い系デザイナーとは
世のクライアントさんは、プライド高い系デザイナーに遠慮をしている!?
プライド高い系デザイナーはどのくらい生息しているのか?
じゃあミズノ、よ、お前はどうなのだ?
実力がないデザイナーほど、プライドを振りかざす傾向がある
結論。もろもろを踏まえて、プライド高い系デザイナーとは、付き合うべきかどうか?
ですので、ぼくの感性にピン!ときた方は、ぜひ一度お話をしましょう(^^)v
自分以外の人の死は「故人からの自分へのメッセージ」なのだと思う
どうも、体験を哲学し言語化するのが趣味なヘンなやつミズノケイスケです(、`)ノ
今日6/24は、父の誕生日なのですね。
父は2年前の夏に亡くなりました。生きていたら70歳よりちょっと前くらいでしょうか。若干、早めに、あちらに行かれたのでしょうかね。
ぼくが独立したのが2015年の5月、その年の夏のことでした。それまで、縁遠かった「身近な人の死」に触れたのが、そのときでした。
このごろFacebookを見ていると、「死」についての話題をよく目にします。
父が亡くなる前でしたら、特に言うこともなかったかもしれませんが、身近な人の死を経験すると、あれこれ考えることもあります。
今日、「父の誕生日だな」ということと、「麻央さんの件での、みなさんの意見」から、ぼんやり考えていたことを、書いてみようと思います。
***
人の死は「メッセージ」なのだと思います。
死には2種類あって、
ひとつは「自分の死」。
もうひとつは、「自分以外の人の死」。
これは、同じ「死」であっても、似て非なるものなので、わけて考えなければならないように思います。
自分の死については、正直、まだよくわかりません。漠然と、死ぬ直前に後悔だけはしたくないなあ、とは思うけれど。今回は、自分の死ではなくて、自分以外の人の死の話。
自分以外の人の死は、
「故人からの自分へのメッセージ」なのではないだろうか?
お昼に親子丼を食べながら(←え!なにその偶然、今気づいたけど!)、そんな考えが浮かんできたのでした。
父が亡くなったとき、それほど動揺もせず、悲しみもわいてこない自分がいました。それを「冷たいやつだ」とする声があるかもしれませんが、正直な実感なのだから、仕方ありませんし、取り繕う必要もないと思っています。
でも、2年前の夏から、節目節目で、父親のことを思い出し、父親の存在が自分の生きる道の指針になっている感覚があるんです。
・・・あの人は、本当に満足した人生を送ったのかな?幸せだったのかな?剪定屋の仕事やりたいって言ってたけど、結局できずじまいだったよな。子ども3人抱えながら働いて、自分のやりたいことを犠牲にしてたんじゃ。
本人がどう思っていたかはもはやわかりませんし、それは父の問題だと思います。残されたぼくは、ぼくにできることをやる。
ぼくにやれることとしたら、父からのメッセージを受け取って、どれだけ自分らしい人生を生ききるか。
父親は、肉体がなくなっても、ぼくの中には残っていて、メッセージを届けてくれています。
その感覚。
だから、
自分以外の人の死は、故人が自分へメッセージを送っているのではないか?
そんなことを思ったのでしょう。
***
小さい時、おばあちゃんの家でよく、「魔女の宅急便」を観ました。
劇中歌でユーミンが歌っている
『目にうつる全てのことはメッセージ』
これに近いのかもしれませんね。
写真は、父が亡くなった日の朝、病室から見えた景色。