正直になった分だけ、自分へのウソを減らした分だけ、人は幸せになれるんだと思う。
自分が「言葉の人」だ、と意識したのが昨年末くらいで。
まだ、本当にそうなのかはわかりませんが、まずは感触を確かめるために、山をのぼってみることにしました。
それ以来、「言葉」に対するアンテナが敏感になりました。
とりわけ、著名なコピーライターさんが書いた本なんかをよく選んで読んでいますが、自分に合うなーと、しっくり来ています。
会社をやめて独立してからは、それまで休憩時間の日課だった「ほぼ日」の購読が、おざなりになっていましたが、ここに来て、再度足繁く読むようになりました。
そして、昨日(2016/02/03)の「今日のダーリン」に、オワっとのけぞったのでした。自分が感じていること、大事にしていることとピタッと一致していて、とりわけ琴線に触れました。
全文を引用します。
・よく「じぶんにうそはつけない」と言われる。
こどものころは、その意味がまったくわからなかった。
そもそもじぶんのことなんだから、
「じゃ、そういうことで‥‥」と、ごまかせば、
じぶんは許してくれるじゃないか、と思っていた。
「じぶんのいちばんの敵は、じぶんだ」というのも、
そんなことはないだろうと思っていた。
戦いというのは、じぶんとだれか他人がやるものだから、
じぶんは敵じゃないだろうと、思っていた。
「じぶんに負けるな」という励ましの意味も、
もちろんわからなかった。じぶんが、じぶんにうそをつこうとする。
じぶんのついたうそを、じぶんが許そうとする。
じぶんがじぶんを誘惑する。
じぶんがじぶんをだめにする。
そういう弱さがあるからこそ、人間なのだとは思う。
でもね、そういう弱さは、もっとじぶんを苦しめる。
なんとか、新しい試合をはじめられるのに、
なにかをうらんだり、なにかを責めているうちに、
光の射す方向に顔が向かなくなっていく。
「生き直す」ときの、じぶんの歩みのたよりなさだとか、
人びとの嘲りだとかばかりが気になって、
過去に向ってこぶしをふりあげたり叫んだりする。
そこまで含めて人間なのだということは、知っている。
こんなことを言っても、ただのことばだ。
ただの説教だから、聞こえないときには耳に入らない。
ぼく自身も、若いときには、まったく聞く気もなかった。
心がこもってようが、親身であろうが、
ことばはことばでしかない。
「そういえば、どこかのだれかが、
じぶんにうそはつけないとか言ってたよな」と、
唱歌のように憶えてもらえればいいと思って、
こんなことばを書いているのだろうか。
ことばは、まことにことばでしかないのだけれど。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そうだ。鏡のなかには、たいていの答えが詰まっている。
僕なりに、3つのポイントをピックアップして紹介したい。
1.じぶんにうそはつけない
僕の課題、まだまだ自分の中での闘いです。長年ウソをついてきた僕が、どれだけ正直になれるか。正直になった分だけ、自分へのウソを減らした分だけ、人は幸せになれるんじゃないかと思っています。
2.ことばはことばでしかない
イトイさんは、その書いた言葉で、どれだけの人とお金を動かしてきたのでしょう。想像におよびませんが、そのイトイさんをして、「ことばはことばでしかない」と言わしめるのか!言葉の力も、言葉の無力さも、どちらも抱えながら、言葉をつくっていきたいと思うのです。
3.鏡のなかには、たいていの答えが詰まっている
イトイさんが、どんな意図でこれを書いたか、推測にはなりますが、自分を見ることで答えにたどり着けると、そう解釈しました。迷ったり、方向性を見失ったとき、外に探しに出るのではなく、自分の足元を見る。自分探しならぬ、自分掘りが、この一文に含まれているのではないでしょうか。
オマケにもひとつ、その日の山田ズーニーさんのエッセイもこれまたキュン!
読んで、Facebookにこんなことを書きました。
嘘は人を動かさない。
もひとつ、ほぼ日で飛び込んできた山田ズーニーさんの言葉。
僕の言葉で言えば、「本音を話すことでしか、人は前に進めない」。
みんなが知りたいのは「本当のところ、どうなんだろう?」で、ドキッとさせられたのがこの言葉。
「自分の正直は、すでに伝わっている」。
そうなんだ、周りはちゃんと自分を見てくれている。
本音、ウソ、正直。
自分に向き合うことでしか、見つけることはできないのだと思います。