互いに考えの産婆になって助け合う「話し合いの効用」by ニーチェ を実感した日
ここ最近、仲良くさせてもらっている農家をしているオトコがいる。
名を安藤源という。
定期的にサイゼリヤに集まっては、とりとめのない話をしている。
"つまみ"は、彼はドリンクバーで、僕はお冷だ。
今日も、19時ころからはじまり、気づけば日付をまたいでいた。
5時間も経っていたのか。
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ドリンクを片手に、とりとめのない話をする。
一見、生産性も何もない営みに思われるが、これまた意外と、生み出されるものがあるのだ。
ニーチェさんが、いつか語っていたことにこんな一節があることを思い出した。
話し合いは、互いに考えの産婆となって助け合うことでもあるのだ。
そうなのだ。
話をしていると、お互いの考えを引き出されるという関係があるのだ。
誰でも、というわけではない。
じゃあ誰がというと難しいのだけれど。
答えのない話を、楽しめる間柄。
かなあ。
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特に、目的地のある話ではなかったけれど、今日のひとつの収穫がこれ。
僕は、「もっとおもしろいRPGがやりたい!」と思ってる人だってこと。
ゲームを非生産的なものだって封印してきたけど、そこにヒントがあったのだ。
自分の頭の中にある考えというものは、ひどく流動的でかたちを持たない。
自分以外の誰かの言葉でもって、はじめて具現化するものなのかも。
それが、考えの産婆さんってことかな。