ポエジー*ミズノケイスケの「IDD=アイディーしてる?」

【IDD=アイデンティティデザイン】その人らしさ、個性を何かしらの意図をもって表現しているさま。

梅坪小学校1年生の熱射病事故を聞いて、幼い子の死について思うこと

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普段づかいの、見覚えのある公園がニュースに登場する不思議を味わった。

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事故の報道があってから、この話を書こうか書かまいか、迷っていた。人の死とは何なのか、いつも考えていることがある。なのだけれど、どうしても一般的な社会の常識とはズレているんじゃないかと思っていて、こういったことを発信するのはためらわれる。

ただ、今回の事故が起きた和合公園は、我が家から2番目に近い公園で、娘の一番のお気に入り、メインバンクならぬメイン公園なのである。この男の子が通っていた梅坪小学校は、おそらくこのまま行けば、1年半後に娘が通う小学校になるだろう。

ニュースで流れていた映像は馴染みのあるものばかりで、小学生たちが歩いた1キロの道のりは、ぼくも歩いたことがある道だ。あまりにも近すぎる。何が、見えない大きな力が書けといっているようでならない。

よし、書こう。この事故を受けて、ぼくがここ最近感じている、人の死が意味することについて、ここに書いておこうと思う。

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まずは、亡くなられた小さな命に、ご冥福をお祈りいたします。

さて、考えを述べる上で、感情を抜きにして考えたいと思う。もし、人の精神を頭と心をわけることができるとしたら、頭=論理性の世界での話と受け取っていただけたらと思う。この事故で悲しみにくれている人がいる。それはわかっている。悲しみの中にいる人には、まずは寄り添うことが大切なことなんだと思う。しかし、配慮をしていたら、永遠に言えないことがあるとも思う。

残されたご両親、家族、担任の先生、友達、同級生。みんな、それぞれに自分の明日がある。自分の未来がある。亡くなった男の子とは別の、その人の人生がある。今は、先のことなど考えられないかもしれないけど、心の傷が癒えてきたときに、向き合わなければならない自分の人生がある。

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若くして亡くなる人を、夭折(ようせつ)者と呼ぶそうだ。ぼく自身が、仏教的な考え方や東洋思想などを学んでいく中で、夭折者にはある役割があると教えられた。それは、「世の中に対して大きなメッセージを届けるために生まれてきた」ということ。つまり、小さな命がなくなることは、社会に大きな衝撃を与える力を持っている。重ねて申し上げるが、感情を抜きにして話している。当事者の方からしたら信じれない話だろうが、若くして亡くなるには意味があると学んだ。

瀬戸内寂聴さんは、「人は旅立つとき、25mプールの529倍ものエネルギーを縁ある人に渡していく」とおっしゃっている。幼い子どもであれば、さらに大きなエネルギーではないだろうかと想像する。これだけ、毎日のニュースで報道されている。社会的なインパクトがある。これは、大きなエネルギーが生まれているとは言えないだろうか。

社会的な影響力もさることながら、この大きなエネルギーを最も受けるのは、ご両親、そして担任の先生ではないだろうかと想像する。今は、悲しみであったり、後悔であったり、自責の念であったり、負の感情を感じておられるのではないだろうか。事故の前と同じ生活に戻るには時間が必要であろう。しかし、この先もずっと後ろ髪を引かれがら、悲しみの中で生きていくことは、男の子も願ってはいないだろうと思う。

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ぼくは、人の死は「残された人への、何かしらのメッセージだ」と考えている。推理小説にダイイングメッセージという言葉が出てくるが、ちょうどこの言葉はピッタリだ。亡くなった人からのメッセージは必ずあって、具体的に文章として明示されていなかったとしても、それを受け取る意志があれば、受け取ることができる。

どうすればよいかと言うと、「その人が死を通して自分にとってどんなメッセージを送っているのだろう?」と考えてみること。そのように、身近な人の死を何かしらのメッセージと考え、そのメッセージに従って生きることが、その人の幸せではないだろうか。そして、亡くなった男の子の願いではないだろうか。

もしかしたら、常識的に考えれば、おかしなことを言っていると思われても仕方のない話だ。でも、そう考えることが、残された人が幸せになる道ではないかと、そんなことを思う。

そして、この考え方は、今回の件に限った話ではなく、大切な人の死を経験している人の全てに当てはまる話だとも思う。大切な人の死から、自分に向けられたメッセージを受け取ること。その人が残してくれた思いを咀嚼し、考え、使命へと昇華することができるとしたら、そのメッセージはギフトなんだろう。

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こう考えるに至ったきっかけの一つに、ぼくの父の死がある。3年前に亡くなった父。今考えれば、父が生きていたときよりも、多くのメッセージをぼくにくれているように感じる。父が3年前に亡くなり、次の年におじいちゃんが亡くなった。身近な人の死を経験して、死とは何か?ということを考えるようになった。

麻原彰晃氏の死刑のニュースを聞いたときにも、同じような考えが頭をよぎった。オウム事件の被害者遺族の方にも同じことが言えるのではないだろうか。そのときには、このような文章として、発信するまでには至らなかった。今回は、この子が、ぼくに書かせたのだと思う。

人の死は悲しいものであると同時に、その出来事を通じて自分自身を見つめ直す機会でもある。そう考えれば先に逝った人からのギフトとは考えられないだろうか。この文章が、必要な人に届きますように。

最後に、小さな命のご冥福をお祈りするとともに、ご両親、先生の今後の人生が輝けるものでありますことを願って。