人の成長を木の成長に喩えると、子どもの無限の可能性というのがよく理解できる。
今日のお昼の会話。
子どもが、「わたしね大きくなったら○○するの」とか、どこの家庭にもある話。
例に漏れず、うちの娘も、
「○○ちゃんね、大きくなったら××するの」
なんて言うのだけど、変化球的に、
「○○ちゃん、小さくなったら××やるの」
と、「小さくなる」バージョン(笑)があることを、嫁さんが教えてくれた。
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ひるがえって、【盆栽】。
先日、同僚のetoさんと話していたら、盆栽の話になった。
木は成長したら戻ることができない。
人も成長したら戻ることができない。
そんな当たり前のこと、なんだけれど。
育っちゃったものは、もう戻れないのよね。
だから、自分がどんな枝ぶりなのかをまず「見る」ことが大事だっていつも思ってる。
もしかしたら、どこまでいっても、自分で自分は見られないのだから。
第三者の視点。俯瞰するとわかる。
で、僕がやっていることって、盆栽をつくる作業なのかもって。
針金で成長する方向を変える。
余分な枝葉を落とす。
木のデザイン。
人のデザイン。
人生のデザイン。
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子どもには無限の可能性がある。
なんていうけれど、木に喩えてみると、ほんとそうだなって思える。
まだ、いかようにも育つ可能性を持っている、白紙のキャンバス。
だから、うちの娘は、僕よりも33年分の可能性を持っているんだ。
すげえや。
写真引用元:http://bonsai.shikoku-np.co.jp/nyumon/2010/04/post-31.html