アイデンティティ水野の【ジブんデザいん】Blog〜人生のデザインの仕方

Life can be designed. 人生をデザインしようぜ!どうしようもなく生きづらい自分を、どうにかしようともがいていく中で見つけた、自分の人生を自分でデザインする方法論、とかとか。

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自分の本心を表現できることが幸せなことだとしたら、僕は幸せものなのかも。

昨日のこと、お盆の初日は実家で親戚一同集まってご飯を食べました。手巻き寿司と流しそうめん。僕の兄妹3人が集まると子どもの数は5人になり、年も近いものだから、賑やかに遊んでいました。お盆飾りのグルグルがダンスフロアになったり。花火もやりました。

実家に行く前には、父親のお見舞いに行きました。病状があまりよくないんです。ベッドに横たわる父親を見ながら、こんなことを考えていました。

父親は、不器用と言いますか、自分の思ってることや考えを、流暢に話すことのできるタイプではありません。団塊の世代の不器用なおやじを地で行くタイプといえば想像つきますでしょうか。

ここのところ感じるのは、自分の心の中にあることを話す場所があるというのは、人にとって重要なことではないかということです。自分の体験からそう思うのですが、中学生、いや小学生くらいからでしょうか、自分の心の中にあることが十分に表現できずに苦しんできたので。

父親の心の中は僕には見えませんが、ふとそんなことを考えました。父親の本音といえば、以前ポロッとこぼれた剪定屋の夢の話でしょうか。そういえばブログに書いたなと思って調べたら、もう3年も前になりますか。(その時のブログ

自分の本心を表現すること、自分の本音を誰かと共有し合うことは、人の幸せの中に含まれているのだと思います。

たぶん。いや、絶対に。そうだってことを証明するために、僕は本音を表現して生きているのだから。と、自分をかえりみると、このブログだったり、SNSだったり、誰かと相対して話をする時も、ずいぶん好き勝手本音を語っているなと。そういう意味では、僕は幸せものなのかも知れません。