アイデンティティ水野の【ジブんデザいん】Blog〜人生のデザインの仕方

Life can be designed. 人生をデザインしようぜ!どうしようもなく生きづらい自分を、どうにかしようともがいていく中で見つけた、自分の人生を自分でデザインする方法論、とかとか。

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根っこから悪い人はいるのか?居場所のミスマッチが悪意を生むのではないか?

性善説と性悪説なんていう言葉、実はよくわからずに使っていますが、よくわからないなりに、「じゃあキミはどっち派なの?」と言われれば性善説派です。基本、ひとはみんな、心の奥底の根っこのところではいい人だと思う(と思いたい)。

感じ方は、人それぞれなんでしょうかね。「いや、そんなことはない。人は邪な生き物だ。だから心を許してはならない」なんて意見もけっこう、その人がそう感じたなら、それはその人にとっての正解です。

僕のコンセプトは「本当のことが知りたい」人。カウンセリングを通じて、生きていくことを通じて、そこんところを探求しているといえるかも知れません。なんだか壮大ですが(汗)、そうすることが楽しいんだって言えば、納得してもらえるでしょうか。

性善説に対するひっかかり

性善説を唱える僕ですが、まだ心の底からそう思っているわけではなく、先にも述べた通り、探求の途中です。性善説を疑うふたつのエピソードを紹介しておきます。

ナチスのアウシュビッツ収容所のことが書かれた「夜と霧」という本があります。

本書は、みずからユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇蹟的に生還した著者の「強制収容所における一心理学者の体験」(原題)である。引用元

初めて読んだ時にブログにも書きましたが、衝撃を受けたのはこの部分でした。

この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともでない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。(P145)

これを読んで、どう思われるでしょうか?

もう一つは、本田健さんの「人の原型」の話です。例えば「詐欺師」という原型があるそうですが、乱暴に言ってしまえば、「人をだますために生まれてきた人」がいるということで、ニュースをにぎわす結婚詐欺師なんかそれに当たるのではと思ったり。

ただ、詐欺師の原型を持っていても、その「人をだます才能」を良いことに使うのか、悪いことに使うのかは本人次第であるのかとも思ったり。

カウンセリングで感じた悪い人はいない説

さて、カウンセリングをしていると気づくことがあります。「あー、根っこから悪い人なんていないのだなー」と。その人のことを深く知っていくと、心の奥底ではみんないい人なんです。(人の深いところを知って、人の多様性を実感すると、人に対して優しくなれるというのは、おおきなご褒美だなって思っています)

人を表面で判断することほど危険なことってなくって、あるひとつの行動、ある役割上の側面だけでその人を判断すると、「あいつは悪いやつだ」「根性がくさってる」と決めつけてしまいかねません。

そうではなくて、最近強く思うのが、「ミスマッチが悪意を生んでいるんだ」ということです。ミスマッチとは「あるべきではない場所」とも言えるかも知れません。

その人にとって苦手な役割、相応しくないポジション、相性の悪い人間関係、そんなミスマッチが悪意の連鎖を生み出していることを感じます。

『人を憎まず、ミスマッチを憎む。』

前提として、「悪い人はいないんだ」というところに立つ。その上で、悪意が噴出して、周りに被害が出ているのであれば、居場所のミスマッチが原因ではないかと疑う。そこのところを紐解いていって、ふさわしい場所にあてがう。僕は、そんな活動をしているのかもしれないなあ、なんてことを思いました。